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≪   洛陽 : 龍門石窟 ( 西山石窟 )   ≫

北魏の493年頃造営開始
岩窟洞 = 数千窟
石削仏像は、大小あわせ 万体を越える。


洛陽(龍門石窟)、平遥、太原、北京 一人旅 (1)
2015/11/02 〜 2015/11/16




鉄道洛陽駅前広場の東端の乗場から、路線バス K81 で終点の龍門石窟まで、、
K81 は、通常のバスと 特=2階建ての観光用急行バスがある。

洛陽駅前広場は広く、、バス停は幅広く散らばっていて、、目的の路線を探すのに時間がかかった。
白馬寺行きの 56路 等は、駅前広場ではなく金谷園路を100m程南下した場所にあった。














龍門石窟のバス停を降りて、、土産物歩行街、チケット売場・ゲイト、石窟北門、そして石窟群、、南門  と 約 2km の歩きである。





洛陽では、  入場券が高額な施設に限り、、老人免費は、外国人は対象外であった。

ここ龍門石窟も、、120元(2400円)をマトモに支払う。


伊河


↑  北入場門を入る。  右端の龍門橋より南に、、石窟群があり、 ↑

↓  結構な距離を歩く。  石窟領域への入口となる龍門橋  ↓





↓  龍門橋をくぐっても、、暫くは南に歩く。  龍門橋が左端に見える。 ↓
  空気の透明度は悪い。 (今回の旅行期間中はずっと悪かった。)




← 禹王池


地図に掲載されている最初の名前。

どんな趣のある池なのかと思っていたが、
わざわざ名前を付ける程のものではない!





いよいよ 西山石窟群の始まりである。

事前にガイドマップを見ていて、高低差もあり、
名前の付いた石窟があまりにも多すぎるので、
見逃してしまうのではないかと心配していたが、
現場の標識に従えば、、ほぼ連続して移動できる。





↓   潜渓寺   ↓
寺 <> 窟 と表現が違い、行く前には複雑な構成だと思っていたのだが、、皆 単なる石窟に見えるのだが、、


大きな石窟には、御本尊と脇仏で構成されている、
小さな窟は、、御本尊に、、レリーフ、、なのが一般的。
いずれも、、、殆どが 風化での崩壊が著しい。



窟のみならず、レリーフレベルの浅い彫りも、、、
これらは、、個人的な動機による物だろう、、まとまりは全くない。




賓陽三洞 ( 北賓陽洞、中賓陽洞、南賓陽洞 ) はまとまった大きさだ。
北魏、 唐 の時代の皇帝の計画による。




↓  南賓陽洞、     中賓陽洞、     北賓陽洞  ↓





                                   南賓陽

中賓陽洞

北賓陽洞                                    




賓陽三洞 の後は、、小さな 石窟が続く、、

此処まで見てきて、  風化のせいか、、魅力的な仏像が見出せない。



インドの カジュラーホ や アンコール遺跡群は、、雨ざらしの遺跡なのに
魅力的な石像で溢れているのに比して、、(時代が数百年も新しいのだが、)
龍門石窟の 現状は、、石像としては魅力がない。






↓  小さな窟で 唯一 魅力を感じた 石像。              敬善寺洞   ↓
本尊に脇仏が揃っているのが ’寺’ なのか?
入口には 守護神像も揃っている。



摩涯三仏




香山寺境内から見た西山、、、賓陽三洞、摩涯三仏は 中央やや右に見え、 奉先寺は左手に霞んで見える。




一度、、下って伊河沿いの歩道を歩く。


羅鼓泉、珍珠泉、牡丹石、、、名付ける程のものではないものまでガイドマップに掲載するので、、主要なものが目立たなくなる。







再び 階段を登り、、



万仏洞  (結構 構成要素は揃っているのに ’寺’ とはならない)  唐の時代

左右の壁は、、小さな仏様で埋め尽くされている。


万仏洞 の天井は 着色が残っている。




万仏洞の入口周辺も賑わっている。







双窟




清明寺




恵簡洞




恵簡洞、、、整った尊顔である。




再び 歩道へ









老龍洞   大きな石窟だ。




蓮花洞、、、、天井が蓮の花なのだ。






次は  いよいよ 奉先寺 だ。



↓   奉先寺への階段   ↓

蘆遮那仏の頭部だけが見える。





東山から見た 奉先寺、、、、壮大な舞台である。

画像クリックで大画面へ








現場から見上げた 蘆遮那仏


この蘆遮那仏は、、則天武后が 自分に似せて建造させたもの、、、

龍門石窟群のなかで、、唯一と言って良い程 見応えのあるものだ。


残忍な悪女として有名な則天武后とは、、

則天武后 ( 武則天 ) 623年?誕生  (2015/11のWikipedia による)
唐第2代皇帝・太宗の後宮に入り、太宗の没後、第3代皇帝・高宗の後宮入りとなる。
政治・宮中の勢力争い・策謀・陰謀の末に、655年 高宗の皇后となる。
その際、高宗の前の皇后と寵妃を陥れ、四肢切断し酒壷に入れて殺す。
皇后になるのに反対した者を死刑にするなど、、恐怖政治を行うとともに、
貴族ではない優秀な人材を引き立てて政治を統治する。  (高宗は病弱)

映画・「王朝の陰謀」がこの時代がテーマであり、、
則天武后に登用された人材 狄仁傑 を アンディ・ラウ が演じている。
このように、、現場で古の時代を考え、造り事ではあるが具現化した映像を絡めると
歴史としても楽しめ、映画としてもリアリティが増してくる。

683年高宗崩御。
690年則天武后が、支那史上唯一の女帝となる。


↓  洞の中なのに、風化したり、崩壊したりと、、見応えのあるものの少ない龍門石窟なのに、、 ↓
何故に 屋外の 蘆遮那仏 だけが これほど美しく 現存しているのか?
後世に、、補修、復元 したのでは?? と疑問が湧いてくる。

拡大して 検証してみるが、、、、










最大の見所を終えて、、、




最早、、じっくりと観る気力は失せている。





六座塔




インドのエローラ石窟を 2度にわたり全窟を堪能した者には、
結局、、龍門石窟は、、数は多いが、、中身は希薄、、という印象である。


龍門石窟を訪れれば、いづれ大同の雲崗石窟も訪れなければならないと思っていたが、
この程度ならば、、、雲崗石窟の写真を見るだけで、、想像できると 思ってしまう。





東山から見た 対岸の西山石窟の全景





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