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≪ 聖徳太子はいなかった。 実在しない、、 ≫
実在した厩戸王を、政治的策略から、偉人化した聖人的偶像だった。太子 ( 574-622 ) が没した98年後 (720年) に日本書紀が編纂され そこに聖徳太子像が誕生する。 実証できる第1次資料は何もない。 |
「 聖徳太子は実在しなかった! 」 初めてこの事実を知ったのは数年前(2004年)である。 たまたま、書店で立ち読みした本の表紙見返しに書かれていた。 まさか、、こんなに親しんできた事実が、、ウソ だなんて、当然信じるわけには行かない。 ところがである、、インターネット google で、「聖徳太子 + いなかった 」 で検索すると、140,000件のヒット。 とんでもない妄想に類する説ではないらしい。 なんと、それに関する本が何冊も売られているではないか! 既に、、特殊な話題ではなく、、一般的な話題になっていたのである。 ★ 我が家のお墓は、聖徳太子が建立したという四天王寺にある。 父、母の納骨の手続きで、本坊を訪れた際に、、担当者に話題をふってみた。 担当者曰く 「 そういう説があるのは知っています。 」 私 「とんでもない馬鹿げた説だと、否定できないのですか?」 担当者 「 私達は、存在したという前提でおります。 」 、、、、、、、 否定できる事実があれば、、「馬鹿げた説ですよ!」 と否定したはずなのに、 「知っていますが、否定しません、出来ません、、だから、、存在したと言う前提から出発します。」 と、、「聖徳太子は存在しなかった」 を認めているとしか思えない。 これで、私は、、少し念入りに調べる気になった。 ★ 日常の生活や遊びに明け暮れている人々には、非常識などうでもよい問題だろうけれど、 こんな日常的で基本的な事実が、、ウソ であるなら、、他の同様の事実は、、どうなのだろうか? 義務教育レベルの歴史的事実が、、存在しないなんて、、世の中全てを疑ってかからねばならない。 ★ 歴史教科書では、、、 私の義務教育時代では、、「聖徳太子」であったが、今や記述される名称が変遷しているそうだ。 「聖徳太子」 のみ → 「聖徳太子(厩戸王)」 → 「厩戸王(聖徳太子)」 → 「厩戸王」 のみ もう、聖徳太子の名は消えているそうである。 ★ ウソで固まった<縁起>を創作した各地の有名お寺は、、どうなるのであろうか! 多分、、そのまま開き直っていくのであろう! ■ 聖人、偉人、英雄、(それに対する悪魔、極悪人も)、、これらは実像の真偽とは別に、 多数を占める凡人の憧れとして、その存在を期待されて求められるからこそ、 創造され、超人的に装飾、非現実的に変形される歴史を積み重ねていくのが一般的。 加えるに、、宗教側、体制側にとっては、己の存在意義を高めるのに好都合な為、 憧れの偶像の肥大化に精力を注ぎ、雪だるま式に祭り上げる事になる。 そういう類の一つであろう、、聖徳太子は ! 卑近な所では、、修験道の役小角(役行者)の伝説があるが、、、 |
素人ながら調べたところ、、「聖徳太子は実在しなかった説」の代表的人物は、 古代史で実績のある大学教授 ”大山誠一” 氏であるようだ。 ■ 大山誠一 『 聖徳太子の誕生 』 (吉川弘文館、1999) 『 聖徳太子と日本人 』 (風媒社、2001) 、(角川文庫、2005/4/23) 梅原猛他 『 聖徳太子の実像と幻像 』 (大和書房、2002) 大山誠一編 『 聖徳太子の真実 』 (平凡社、2003) 他に: 『 聖徳太子の謎 』 関裕二。 『 聖徳太子はいなかった 』 谷沢永一。 久米邦武、津田左右吉、福山敏男、藤枝晃ら、、明治時代から、荒唐無稽な聖徳太子を否定されてきた。 以下は、、私なりに得た知識・情報を整理したものに過ぎない個人的なメモの羅列なので、 出典、検証の有無などは特に記載しない。 ■ 創出された聖徳太子像とは: 実名は厩戸皇子。 生涯 574年−622年。 冠位十二階を定める。 門閥主義を排し、有能な人材を登用した 。 十七条憲法を制定。 天皇中心の国家理念と道徳を目指す 。 和を以って貴しと為す、、、 遣隋使の派遣。 607年小野妹子を派遣し、隋と対等な国交を試みた。 『 三経義疏 』 の記述。 蘇我馬子とともに国史の編纂を行う。 ★ 一般人にとって特に関連のあるのは、、 四天王寺の建立593年。 法隆寺の建立607年。 仏教興隆に励み、結果として聖徳太子信仰の本尊となっている。 |
唐 本 御 影 (最古の肖像画と伝えられる)の複製画 法隆寺所蔵より、1878年皇室へ献納 偉人・聖人の出現に憧れて創出された聖徳太子 というより、、、聖徳太子の像かどうかも不確かなもの。 |
■ 聖徳太子関係資料に歴史的事実は皆無であり、すべて、後世の作り物であったことが明瞭になった、、 聖徳太子は、架空の人物だったのである。 その聖徳太子という人物を最初に創造したのは「日本書紀」の編者であった。 日本書紀の編纂は681年に始まり、720年まで、ちょうど40年かかっている。 よく見ると推古朝という時代の肝腎な部分には、聖徳太子は登場せず、 歴史的事実とのかかわりは慎重に排除されているのであるが、、、 日本人は、「皇太子・摂政」という肩書きに幻惑されて、 当時の政治のすべてに聖徳太子がかかわっていたかのような錯覚をいだいてきた。 日本書紀が信用できないといっても、もちろん、事実を記した部分もある。 推古朝の場合、冠位十二階とか小野妹子の遣隋使など、「随書」によって事実と確認できる。 608年に来日した隋使、裴世清が会った倭王は男性であった。 女性の推古ではありえない。 推古が大王であった事実を伝える資料は、全て、後世に作られた聖徳太子関係のものばかりである。 推古だけではない。 用明も崇峻も、大王としては疑問がある。 聖徳太子の時代の大王である。 (私的注 : 「天皇」号の成立は7世紀末持統天皇からで、それ以前は「大王」を号していた) ↑ ≪大山誠一著:聖徳太子の真実、211頁〜213頁≫ ↑ ■ 『 四天王寺縁起 』 聖徳太子自筆の書として四天王寺に現存する。 地名、称号などが当時は無くて、後世に作られたものが記されている。 記されている規模が、飛鳥時代の発掘調査とは異なる。 聖徳太子の死後400年を経た1010年頃の作成と考えられる。 ■ 『 三経義疏 』 内容に後世の引用があり、聖徳太子の作ではありえない。 同内容の本が中国にある。 ■ 『 十七条憲法 』 官名や、内容に後世の概念が含まれている。 ■ 『 天寿国繍帳 』 内容に後世の概念が含まれている。 作ったとされる目的と内容が食い違っている。 1274年に尼僧信如が夢のお告げで発見したと、不自然である。 ■ 『 聖徳太子伝暦 』 984年以前の成立 初めて、聖徳太子の全ての年次にわたり記述がある。 聖徳太子とかかわりのない事柄まで、聖徳太子と関連付けされ、聖人化されている。 etc,etc |
「 聖徳太子関係資料に歴史的事実は皆無である。 」 と多くの学者が昔から研究しており それを明確に否定できないのが事実のようである。 結局、、 ≪ 聖徳太子はいなかった。 実在しなかった ≫ ようだ。 しかし、現実には、、法隆寺も四天王寺も、、聖徳太子を祭り、祀り、、縁起物語を宣伝し続けるだろう。 事実かどうかではなく、、信じる方が得なのである。 あこがれの偶像を必要とする人達は多い。 |
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