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≪ チベット仏教、歓喜仏・忿怒尊 ≫

合体仏、和合仏、タントラ教

父母仏立像に初めて遭遇して、チベット仏教を調べる、、
2010年02月


   






チベットと言えば、ダライ・ラマ、、ラマ教、、辺境の聖地、、程度の知識しか持ち合わせていなかった。
中国の侵略に抗して、1959年のダライ・ラマ14世のインドへの亡命、亡命政府の樹立と、、、
民族独立・自治の問題としての情報が伝わり、中国に対して悪いイメージを抱きはするが、
チベット文化に対しては、、大して興味はなかった。

忿怒相(ふんぬ)の黒いダーキニー立像の彫刻としての魅力を知ったのが、、転機となり
対象を真剣に見るようになったのだが、、、ありふれた多面多臂の仏像だと思っていたのが
精巧な和合仏である事に気が付いた。

チベットは、辺境の地、、その宗教も、巡礼の五体投地(チャクツル)に代表される純真素朴な仏教と思い込んでいたので、、
男女合体仏なんて思いもよらなかったのである。
しかし、、一度気が付くと、、観察も真剣になる。  文献を漁り、、何故こんな仏像が造られるのか? 

今までは、インドのカジュラホに代表されるヒンドゥ教の寺院彫刻を知るのみで、、それも特殊な場所と時代だと認識していた。
まさか、、仏教の世界で、性的結合の恍惚が、悟りの境地と結び付けられる教義に遭遇するとは、、驚きである。


↓ チベット密教の 歓喜仏、合体仏、和合仏 の数々 ↓
←  立像
坐像  ↓
↑ 女尊は片足を男尊に絡ませる ↑
↓ 男尊の姿勢は展右勢 ↓


タンカ Thangka 軸装仏画







←↓ 歓喜仏は、、彫刻のみならず、タンカにも ↓


70cm X 40cm

この綿本仏画には、多数の歓喜仏が描かれている。

男尊女尊和合の恍惚が画面全体に、、
これは、、教義の一部ではなく
教義の重要な部分を占めているのだろう。

ラマ教に対し、淫祠邪教との印象を抱くのも無理からぬ。













★ 日本の仏教は、己が悟りを開いて、”自他共に救われる” という大乗仏教であり、、、

★ セイロンを経由した タイ や ミャンマー の仏教は、
  ”釈迦のように他人まで救えないから、せめて自分達だけでも悟りを開こう” という上座部仏教である。

★ 空海・真言宗や最澄・天台宗の日本の密教は、インドから中国を経由したインド中期仏教であるが、

★ チベットでは、7世紀〜14世紀にインド仏教の伝統が途絶える直前の時代に、インドから直接に伝わった後期密教であり、
  チベット仏教の特徴と見られる要素の大部分は、後期インド密教の特徴である。


■ チベット仏教での仏像の格
(1) 仏=如来


(2) 菩薩


(3) 祖師


(4) 守護尊


(5) 護法尊


(6) 女尊


(7) 羅漢
釈迦如来、阿弥陀如来、、
( 釈迦の出家後の悟りを開いた状態 )

観音菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩、虚空蔵菩薩、地蔵菩薩、、
( 釈迦の出家前の修行の状態 )

宗派の開祖、、、


寺院、宗派、個人の守り神。 忿怒相の歓喜仏が之に当る。


四天王、不動明王、、忿怒相の歓喜仏が之に当る。


観音菩薩の妃ターラー、守護神ヘールカの妃ダーキニー
仏頂尊勝、般若波羅蜜、、

釈迦の直弟子、、
歓喜仏・和合仏・合体仏は、、守護尊、護法尊レベルで、自身の妃である女尊との性的結合像である。
結合状態の2尊を、チベット語で ヤブユム=父母化 (ぶぼか) と言う。


■ 『 聖なるチベット 』 フィリップ・ローソン著 平凡社刊 より引用

女尊は、直感的な洞察力や無我についての智・般若を神格化したもの、
男尊は、宗教的な手段・方便の神格化したもの。

方便も般若も単独ではなんの成就をもたらさないが、、
性的な結合は、最も高いレベルの成就を超越的な歓喜という形で体験できる。
サンスクリットでは、サハジャ(倶生)と呼ばれ、性的な恍惚は、その隠喩であると同時に実戦方法である。

チベット仏教の4大宗派の内、最古派のニンマ派では、実際にタントラ的な行法を実践するが、
ゲルク派、カギュ派、サキャ派は、イニシエーション(潅頂)における視覚化の瞑想を通して象徴的に行われるに過ぎない。

瞑想の実戦の基盤として性的な結合が利用され、、

主要なタントラ経典、例えば 「ヘーヴァジュラ・タントラ」 が性的な儀礼次第を規定している。

世界創造のエネルギーは性的なエネルギーの中に最も強力に潜んでいる。 瞑想者はこのエネルギーを集め
自分の回路の中に送り込み調和・変容・凝縮というプロセスを通して、身、語、心が統合された光の存在へと変わる。
これは菩提心と呼ばれる。  、、、そこに到達する事が涅槃なのである。

実際のパートナーと性的な結合をしながら瞑想し、自分の体内にあるエネルギーを放出しないで、逆流させ内側へ向ける。
この著者のフィリップ・ローソンは、
英国ダーラム大学付属東洋美術館で長く館長を務め、ロンドン王立美術学院教授、ゴールドスミスカレッジ美術学科長を歴任。

と、、健全なる経歴の持ち主であり、、出版社も平凡社と普通であるので、、この本の内容もまじめなものであるのは間違いないが

私には ???である。 様々な考えがあるのは当然だが、理論が如何なるモノでも結論の真偽・正否が全てである。
納得できない結果なら、、その理屈も責任を負わねばならないだろう。

ま、、私には、、彫刻面で芸術的な感性が、、創造した職人の感性に共鳴すれば、、楽しいのである。
その局面だけで接して行こう!!




↓ インドのカジュラホのミトゥナ像 ↓


カジュラホのミトゥナ像詳細報告へ


この類の彫像を最初に知ったのは、カジュラホである。
ここだけの超珍しいモノだと思っていた。
ヒンドゥ教寺院であるが、、一般のヒンドゥ寺院には見られない。

「男女和合の恍惚が、神との一体化に通じる」 という程度の理解しかしていないが、
彫刻としての魅力が素晴らしいのである。

↓ そして、、インドの青空に、広々と、、アッケラカンと存在しているのが、健康的に見える。 ↓

カジュラホ西の寺院群訪問記へ




↓ チベット密教の和合仏 ↓

彫刻として素晴しい出来栄えである。 合体女尊正面から

↑ ヘーヴァジュラ父母仏立像 28cm ↑
男尊ヘーヴァジュラ(ヘールカ) & 女尊ナイラートミヤ




↓ カーラチャクラ父母仏立像 59.5cm ↓

カーラチャクラ & 明妃ヴィッシュヴァマー
女尊背後から見るので男尊は重なって見えていない。


↓ 横から見る ↓
カーラチャクラ & 明妃ヴィッシュヴァマー ともに四面の顔を持つ

↓ 男尊左から    男尊右から ↓




↓ ヤマーンタカ父母仏立像 133cm ↓
冥界の王ヤマを征服する者の忿怒尊

明妃の左足は男尊の腰に絡み付いている。

この像は133cmと大きいので、、
↓ 下のアングルから見ることが出来た。 ↓
カジュラホや浮世絵の如く、リアルな挿入が再現


これを見るまでは、、ただ抱き合っているだけと思っていたが、
細部までリアルに具現化されている。
他の小型の父母化も同じなのだろう。
小さくて下から確認できなかった。
ここまで、、忠実なる具現化が宗教的に必要なのだろうか?  宗教とは何ぞや! と疑問


ただ、、宗教を離れて、彫刻としては魅力ではある。 というより 趣があるという意味でオモシロイ。






↓ ナイラートミヤー坐像 106cm ↓

ヘーヴァジュラの明妃で 無我の尊格化女尊
3眼で、髑髏の冠、髑髏の首飾り
死人の上に座している。



↓ 忿怒相の黒いダーキニー立像 33.5cm ↓

3眼で、髑髏の冠、髑髏の首飾り
左手で髑髏の器で血or脳みそをあおる。
踏みつけているのは、煩悩や悪の象徴する人間
聖者ナーローパの性的パートナーとして
悟りを得るのに協力。

展右勢のポーズと言いスタイルと言い、芸術性は非常に高い。
もっともお気に入りの彫像である。


ダーキニー立像を前にして、思い出したのが、、
↓ バンコクの彫像群 ↓

ワット・スタット訪問記へ



チベットの仏像を沢山見たが、、最後に、、

↓ 十一面千手千眼観音菩薩像  77cm ↓

派手な仏像ではあるが、、
多くの人を救う為には、
沢山の眼で見て、沢山の手が必要と
ただ単純な発想なので、印象が平凡である。

発想が単純なせいか、、芸術的感性も刺激されないのか
スタイルもポーズも組合せもパッションが感じられない。



今回、チベットの仏教に、、その一部を体験したが、、、
彫刻的に、、興味を持った、、そして、、まだまだ魅力的な彫刻に遭遇するかも知れない
と、、今後のチベットとの遭遇に期待を残したが、、、宗教的には、、興味は湧かない。

反って、、タイの仏教体験に一層の親しみを覚えた。


↓ アユタヤのクメール式仏塔を持った仏教寺院廃墟 ↓
訪問記へ




しなやかな動きの 遊行仏
← シー・サッチャナーライ遺跡(スコタイ遺跡)

↓ スコタイ遺跡 ↓

温かみの表情


タイの仏教は、、、遺跡ものどか、、 現役の寺院も穏やかで日常的な信仰心に満たされている。
仏像も、、殆んどが、釈迦坐像、釈迦涅槃像、釈迦立像で、、大きく華麗で穏やか なのである。
最初の頃は、単純過ぎると、興味は無かったが、、慣れるにしたがって、、その単純に大きいのが
信仰の対象として、、懐の大きさを感じさせる、、と言うように思うようになったのだ。
礼拝堂の大きな空間に慣れてくると、、とても居心地が良くなる。
お参りする地元の人達の穏やかな信仰態度に、、こちらの心が穏やかになる。

日本やチベットの厳格な密教の世界が、、、何故か自我へのコダワリに
忘我と言いながら、、自分の悟りにコダワっているのでは、、と  、、、、、、、、、、


ここ2週間ほど、チベット仏教の資料集めや解読に時間を費やしたが、
まとまった考えには至らずに、中途半端な理解に止まってしまった。
時間が経てば直ぐに忘れてしまうのは明らかなので
中途半端な状態でも残しておけば、少しは再開に役に立つだろうと
ネット上に記録しておく事にした次第である。




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