≪ 秋月 (福岡県)、 1世紀ぶりに先祖の地でルーツを探す。結果は、、 ≫

感動の共有、のぶながTOPページへ 写真豊富な、のぶながワールド 小鹿田焼き、小石原焼き、有田、も訪ねる。

■ 甘木市の秋月は本籍地である。
   が、、私も、私の父も訪れた事がない。
   今まで何百回となく福岡県甘木市大字、、と書いて来たのだが。
   たまに、相手から「良い所ですねえ」 と言われるのだが、、
   「いや、行った事がないので全く知らないんです。 良い所なんですか〜」 と、、、

■ 昨年、父が86歳で亡くなり、今年3月に我が娘が結婚。 私も今年で60歳になる。
   我が家も世代交代の流れ。
   人生の節目の時期に、未知の故郷、秋月へルーツを探しに出かけることに!
   2003年3月初旬、娘の結婚式の1週間後に、我が嫁と出発。

<我が故郷は桜の名所でありました。>
秋月マップ
秋月の観光マップ(甘木市役所でget)
秋月藩は、1203年原田種雄が、鎌倉将軍・源頼家から秋月荘を拝領し、秋月氏を名のったのが始まり。
[秋月郷土館資料より]
400年程続いて、1600年、関ヶ原の戦いの功績によって、筑前国を拝領した黒田長政が、秋月に叔父の黒田直之を配置し、後に三男の黒田長興が大名となり、黒田分家としての秋月藩が成立。

★ 事前に、インターネットで 「甘木市」 を検索し、美しい自然の風景を堪能して、
 画像掲載のHPにお礼の mail を入れたら、
 「秋月地区に同姓が数軒ありますよ。 親戚かも知れませんね。」 とのご返事を戴いた。

この時、同時に<秋月郷土館>のHPも閲覧していたので、、、ハッと閃いた! そして早速 mail を入れる。
こちらの状況を説明して 「貴館に幕末の藩士名簿のようなものはないでしょうか?」 と、、

直ぐには返事がないので、無視されたかと思っていたら、、数日後返事が!!!
 「藩士名簿に、名前があります」 と、、、、、、、探してくれていたのだ。 感謝感謝。

★ 伊丹空港 10:55発、佐賀空港 12:15着。 佐賀市内からレンタカーで高速道経由で甘木市へ。

初めて見る甘木市内

ごくありふれた田舎町

大手スーパーも
↓戸籍謄本はいつでも郵送で依頼の甘木市役所
↓受付で、本籍地はこの辺りと、、人家も地番も無い。
↓秋月は甘木市街から北へ
完全に別の地域のようだ。
あいにく予報どおりに雨天、2日間共に雨であった。
↓ 秋月の野鳥川

このように美しい所で良かった。
 ↓ 後方の山が秋月城跡
     ←
3時前、秋月地区手前の食事所で、遅めの昼食を、、、、
ざるソバとうどんを頼んだら、共に1.5人前はある量が出てきた。 このうどん、海老天、アゲ、牛肉、卵、ワカメ、ねぎ、蒲鉾、とろろ、と大ぶりの丼に、、、半分残してしまった。
              →
電話帳で、同姓の部所を撮影。
 ↑ 歴史を残す桜の名所<杉の馬場>と 財団法人<秋月郷土館>入り口(右)

  ↑ 2週間後には桜で満開

  ↑ 上野鳥地区

 ↑ 印刷物として整理されている
↓ 黒田三藩分限帳の目次
 ← 最初の頁は、家老などの主要閣僚の名が、、、、



 ↓我が苗字は、何頁もめくって、

下っ端役人のようである。
秋月藩の歴代名簿には何ヶ所も、名前が載ってはいるが、「これは子孫が途絶えている」との説明、、、
ヤヤヤッ、、そこまで調べて戴いているとは、、恐縮である。
 ← 分限帳とは別に、 →
幕末に作成したという手書の文献が。

幕末に召かかえられた実務向けの侍の系統図らしい。
これに≪禎蔵≫なる名前が、、、
見知らぬ者からの1通の MAIL で、こういうモノまで探し出して戴いていたとは、ありがたい限りである。

我が戸籍簿によると、祖父が明治11年に祖祖父 「禎三」 から生まれている。
祖祖父 「禎三」 が、この 「禎蔵」 の三男の可能性があるのではないか、、、
★ 一部状況証拠ではあるが、、我が祖先は、間違いなくこの秋月にて実在していた物的痕跡を知り、我が方の資料として写真に撮った。

武士の時代から明治維新となり、新政府に強い不満を持ち、1876年秋に秋月士族250余人が反政府の挙兵をして秋月の乱を起こし、敗北。 この後、侍は秋月を離れ、商人も離れ、秋月城下もさびれ、過疎化の一途。
この時に、我が祖先も別府に移り住んだようである。 別府時代からは戸籍簿謄本に詳細に記されており、今も別府では親戚が派手に歯医者をやっている。

■ 秋月の名所も沢山あるのだが、雨天、しかも夕方4時となってしまった。
今回の旅行は、秋月だけでなく、民陶の小石原焼、秘境の焼物の小鹿田焼をも巡りたかったので、古文書閲覧料3000円を払い、他の名所史跡を見ずに、小石原に向かう。 何が何でも小鹿田焼きの日田市の皿山地区だけは寄っておきたかった。

■ 小石原に着いたのが、4時20分、ジックリと見てはおれない。 小石原はもう一大観光地、一般的になり過ぎている。 1軒だけ覗いて、イザッ、小鹿田焼の皿山へ。


 ↑小石原の民陶店
 大きな店が並ぶ。
 こう観光地化すると魅力なし

 ↑皿山への道は遠い。
この道で良いのか不安になる。
ただただ山の中、奥へ奥へ、、

 ↑ この先、最後の山越えは、車幅ギリギリで、我が嫁は「怖いから帰ろう」と、、
暗い峠を越えて、小鹿田焼の里
狭い地区にビッシリと屋根屋根

この屋根を見たトタンに、
「裕福な村だ、儲けてるな!」

我が家には、親の代から鍋物の時に使っている<飛カンナ>の小鹿田焼の大皿がある。
この為に、小石原に隠れがちな小鹿田焼が身近に感じられるのだ。

この時点で、もう5時20分
雨の中、何処か開いているだろうか?
時間が無かったので1軒のみ見学、購入。
水車で動く<唐臼>、10軒しかない窯元、全部見てみたかったのだが、、、

 

 ↑共同の登り窯

 
 ↓ 登り窯の一室
 ↓ 作業場
 ↓ 作業場横の売場
<小鹿田焼>は、<おんだやき>と読み
窯元は10軒のみ、一子相伝で、外部の参入を拒み、
素朴さを守り、個人が目立たぬように、
焼き物に窯名を入れない、
共同の水車の唐臼で陶土を砕き
蹴ロクロで成型し、共同窯で焼く

と、伝統を守る事に徹底している焼き物である。
希少価値があるのだ。

 ← 今回買い求めた<トビカンナ>の大皿

  大きいのだ! 今後この大皿を使う度に
  思い出し、話題にする、、、、、、、
  この時、娘が結婚した、
  前年にオヤジが亡くなった。
  秋月を訪問してルーツを求めた、、、と

  だから、大きく目立たねばならないのだ。

真っ暗の中、
ホテルニューオータニ佐賀に着いたのが8時過ぎ
↑の写真は翌朝撮ったもの

ニューオータニと名乗るだけあってマトモなホテル
お堀端のロケーションは最高。

↑ホテルの夕食は、
東京・西麻布のレストラン「アルポルト」の片岡護シェフ プロデュースのイタリアンをオーダー。
なんと客は我が夫婦のみ。 丁寧な調理だが、
素材の味を活かす為か、シンプルな味付け。
ヤヤ物足りないのだ。
翌朝は有田へ

9時前に着いてしまったのだが、、
もう既に香蘭社のショウルームがOPENしていた。

↑前回工場見学させてもらいHPで紹介した青花(しん窯)がお休みだったので、近くの卸売り団地に寄ってみると、、なんと立派な青花の品揃え。
目に付いたのが、この蛸唐草のお皿。 珍しいデザインなので買ったのだが、同じ大きさなのに他のデザインの2倍の価格が付いている。 聴いてみると、蛸唐草模様は手間がかかるので高価なのだそうな。 よく見ると、なるほど、乱れずにコマゴマと描かねばならぬ。
2度目の有田なのだが、土曜日とあって訪ねた青花(しん窯)、源右衛門窯は休み。

← 柿右衛門ショウルーム
ここで小ぶりのコーヒカップを眺めていたら、嫁が猛反対。
そんなもの買うなら生活費がどうのこうの、、と
ここはヒトマズ諦める。 怒らせるとマズイのだ。
来月は単独で、本社工場開放というマイセンのOpen Day、ハンガリーの田舎町ヘレンドの本社工場に行く予定なのだから、、
価格は柿右衛門の比ではない。
佐賀市内に戻り昼食。 海鮮創作料理の看板を見て期待して入ったのだが、、、
入ってビックリ
お昼のメニューは¥590円

このにぎり定食も、吸い物と野菜サラダがついて¥590円なのだ。

佐賀空港から伊丹空港経由で、
自宅に戻ったのは夕刻5時過ぎ。
雨の1泊旅行ではあったが、永年行って見たかった小鹿田焼き、秋月と、好奇心を大いに満足させた旅であった。


 ↑ 飛行機から見た鳴門海峡

■ 何もしないより、行動する方が遥かに楽しい。
■ 今回は、事前のインターネットでの出会いが、深い展開をもたらしてくれた。 お世話になった人達に感謝!
   最初に閲覧したお礼の mai lのRESに 「同姓があります、親戚かも」と記されてなかったら、、
   郷土資料の山から、特定の姓名を探すという大変な努力をしてやろうと、思ってもらえなかったら、、
   今回は、インターネットを通して、<人の好意の連鎖>の恩恵をこうむったのだ。

   本日、ブッシュ大統領が、イラクに最後通告をした。 48時間後に戦争が始まりそうなのだ。 2003-03-18 

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