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≪祥瑞の珈琲カップ≫

求めて26年目に出会ったコーヒカップ
 

<やきもの>の楽しみは、器そのものの魅力と共に、
出会い、思い出 等、、使う度に、見る度に、そういうものが心を漂い、物だけの存在ではない。
私には、そういうものなのだ。

音楽体験と同じように、、その場その時を生きてきた、行動してきた証でもある。
旅先で見つけたMozart、Bachの CUP 等のように記念的なものとは別に、
その時それを見つけた感性のレベル・基準のようなものの証拠品でもある。




2005年2月初め
半年前から、ダイエットの為に毎週続けている京都歩きの途中
五条坂のウィンドウで見つけた Cup and Saucer

祥瑞 手のCUPで、この上部にふくらみのあるモノは
1978年のやきもの雑誌で ↓ の写真を見て以来、手に入れたいと、、、


画家・下村良之助氏が、終戦直後の昭和21年に
友人であった川瀬順一氏からもらった湯のみ。
『人間の性格や歴史まで沁み込んでいるような 』
と ご本人も書かれているとおり風格がある。

それ以来、機会あるごとに探していたのだが、見つかる事はなかった。
湯飲みでも珈琲カップでも、何れでも良いのだが、、、26年目にして、、遂に手に入れたのだ。

しかし、、比べてみると、、、繊細な凹凸の形、絵付けの場所、漢詩の有無と
≪憧れの湯のみ≫の心配りの素晴しさが目立つばかりだ。




≪憧れの湯のみ≫を意識して買った湯飲みの一つ ↓ 10〜20年以上前だ。
『 和山 』 作
呉須の明るい色合い、幅高さのバランス、尻部の丸み、、と
中々の作品で、馴染みやすい。
文字が ”福寿” の繰返しではなく、
意味ありげな漢詩であれば、なお良い、、、

↑ 舟遊び

↑ 碁遊び
↓ 乗馬遊び
↓ 蓋にも全て描写
年季の入った職人技でないと
描ききれないのが祥瑞

筆運びに迷いや乱れがあれば
全く魅力はなくなる。
そういうものでも店頭に並んでいるが
手が伸びる事はない。

→ 『 ? 』 作 →

絵柄は同じ趣向である。

形が、尻すぼみの直線なので
温かく馴染むと言うよりも
少し冷徹な感じがする。

≪祥瑞≫というのは、
茶人 古田織部 が景徳鎮に発注して作らせた独特の意匠。
緑釉が魅力を添える織部焼きと共に
自由奔放な描きこみの集合なのに、全体から醸し出す知的な豊潤、、、
古田織部の感性には大いに魅せられる。




<細かな描きこみ>が全面に施され
真直ぐ筒状の形状を、
斜めの画面割りで特徴付けた希少品
『 京泉 』 作
3面の景色は全て描き分けている。
商品という事を忘れて
描き込みたいから手間を惜しまず描いている。


← の部分拡大
忘我の職人魂の意地・執念
のようなものを感じる。

← の部分拡大

↑ 手描きの良さを大いに楽しませてくれる湯のみである。 ↑
「京泉」作といっても
他の銘も同じく、個人とは限らない。
工房作品である。
京泉(1976年から2代目馬場登朗)=京都製陶且ミ長



『 叶松谷 』 作、  『 壱楽 』 作

松谷にはおおらかな個性がある。
(購入時の2代目と違い、昭和23年生まれの3代目は今や大学教授で高価高価)

壱楽は、これに限らず、店頭でよく見かけるせいか
描き手の個性が少し弱いのでは、、、、、、、、、、

『 平安光泉 』 作
単に同じパターンの繰り返し。
この単純さが快感なのだ。
最初から最後まで、均一に描ける精神力
無垢になりきるのか、、想像ができない。
一つが均一なだけでも驚くのだが、、2〜3客並べても均一な調子は乱れていない。


「平安光泉」、3代目 前野勝 ( 昭和18年生まれ)



一番付き合いの永い湯のみである。
夫婦揃いは、結婚記念に友人から贈られたもの
(勿論、こちらから希望をしたもの)
これら以前に、手に馴染んだ<光泉湯のみ>があった。
独身の頃、永く愛用していたのだが、割ってしまったのだ。
割れた後は、半年ほど、全くお茶を飲む気がしなかった。

結婚を機に、右端のを買いなおしたのだが、、、
もうこの時期に、、昔の呉須の味わいはなかった。

↑ これでもまだ良い方だ ↑
今年2005年に老舗の店頭で見たものには、もう魅力は感じなかった。
この手のものは、僅かな乱れでも、呉須の深みの欠如でも、、もうダメである。

ただ、一軒、古びた店舗の奥に、長く売れ残っていたように置かれていた一品が、、、
、、、、、良かったのだが、手の出ない値段が付いていた。




↓ 『 光泉 』 のマグカップ と コーヒカップ ↓

この光泉のコーヒカップで、大いに勉強させられたのが
↓ 高台の立派さである。 ↓
← コーヒカップの高台
鉄釉でビシッと決めただけでなく
細かく飛びかんなの如く造作。
実に格調高い。

↓ マグカップの底部

↓ コーヒーカップの皿の底部

↓ マグカップの皿の底部

あまり格調が高すぎると、、気楽にはコーヒーを入れて飲めない。
余程、気分が改まった時だけだ。
それに、コーヒーの味も疎かにはできないカップなのだ。





『 瑞泉 』 作

呉須で埋め尽くされている。 白い部分が極端に少ない。

形もバランスが良く、どの絵柄も均等に扱われている。
中心の花の絵柄が模様化でなく、個性的に目立っても良いかもしれないが、、

少し濃い色の呉須である。





祥瑞に親しんで、手描きとはこういうものだと思ってしまうと
ちょっと手で書いた線描きなどは、希薄に思えてならない。

特にヨーロッパのものは、線自体に筆の味が感じられない。
肉筆と言うより、ペン描きのイメージだ。

紅茶碗、珈琲碗の大きさだと
白地とのバランスが悪く、間が抜けた印象に見えてしまう。
ロイヤルコペンハーゲンなど数客もっているが
全く使う気にはならない。

■ ↓ 小物だとバランスは良くなる ↓ ■

マイセンの ブルーオニオン エスプレッソカップ
ロイヤルコペンハーゲンの フルレースの小皿、シュガーポット等


★ マイセンのエスプレッソカップは、マイセンの工場で買ったもの、、大いに気に入っている。
日本では、この小ささは見たことがない。

★ ロイヤルコペンハーゲンは、コペンハーゲンの空港で購入
1979年正月、娘が生まれる1ヶ月前に
お腹の大きい嫁を 独り残して、欧州旅行した時である。
その娘が既に他人の嫁になっている。

これらのやきものも永い永い付き合いなのである。






■ 祥瑞が良いに決まっているが、、祥瑞ばかり購入するには高価すぎる。
普段、旅先で買うものは、染付けが多い。 筆味のあるものに出会うと買っている。
それでも、手描きと言うだけで、転写ものよりは高くなる。  でも、今更、手描き以外は馴染まない。

『 宮崎祐輔 』 作  有田陶器市で購入

↑ 特に欲しい物ではなかったが、、旅の記念にと、、、


↓ 『 青花 』 有田しん窯 ↓


↑ 我が家の食器の多くは 「青花 」 である。
茶碗、どんぶり、小皿、大皿、湯のみ、ワインカップ、、、割ったのも一番多いだろう、、

染付け以外で、磁器もので日本的なもの、、ピンからキリまであるが、、
買ったけれど割れても気にならない、、記憶の隅から消えそうなものと、、、

存在価値があるものを数点、、、
↓ 清水で、、シュガーポットと、別の時期に、別の店で購入
↓ 九谷焼き、、、剣岳登山の帰途に金沢途中下車して

↓ 豪華絢爛に見えるが、、、

↑ 買った情況を思い出せないが、、転写ものだろう、、

■ マイセン等の磁器色絵、白無地の型物、、備前、織部等の陶器物の紹介は別の機会にして、

珈琲カップ、湯呑とは、永く永く意識的に付き合ってきた。
特にこだわって情熱的に接した事は全くなく、、日常的にさりげなく、自然に接している。
さり気なく陶器店を覘き、、暇なら陶器市に行き、、、旅行すれば記念に、、と
熱する事は全くない。  しかし、話し出すと、幾らでも話題は出てくる。 体験は多い。

■ こんな情況で、、、見つけたのが嬉しくて、いつまでも気分が良くて、、
熱い珈琲を満たす機会が多い、、今までで 各段に悦に入っているコーヒカップ
≪憧れの湯のみ≫に近い、祥瑞ての珈琲カップである。
これは事件である。 私にとって、、、

もう一度、詳細画面を、、、↓



『 昭阿弥 』 作 祥瑞手珈琲碗

上部のふくらみで、広くおおらかさを
下部の多角形面で座りの良い安定感を、、

良い、、実に良い、、
ストロング珈琲で満たすと、安定感よく落着く
座りごごちが良い。
上部のふくらみで悠々たる珈琲面、、
角ばった底部でゆるぎない安定感

たかだか、、珈琲カップなんだけれど、、
それが 祥瑞 となると、、とにかく気分が良いのである。


そして、、、もう一つ

前述の雑誌掲載で、、、
欲しいと思った湯呑が、もう一種類ある。

↓ 作家 水上勉氏が20年愛用しているモノ ↓

同じものを欲しいわけではない。
白い地を広く生かした、
漢字が魅力的に配されたモノを、、、探しているのだ。



いつになったら、遭遇するのだろうか、、
気楽に待とうではないか、、、、


達人は、、良い物と永く、良く付き合っているものだ。
「 さすが 」 と言うべきだろう。

≪ マイセン磁器工場訪問記へ ≫
年に2回だけの工場開放の日、OPEN DAY 訪問記
写真多数掲載
≪ 青花  有田しん窯訪問記へ≫
工場見学自由
≪ 素人として自作の祥瑞 ≫
  陶芸始めて2年5ヶ月目の作品が最優秀賞受賞




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